北海道民族学会創立の頃
岡田淳子 (2005年10月記)
北海道大学の北方文化研究施設に「文化人類学部門」が新設されたのは1973年度で、そこに最初に赴任したのが、後に本会の初代会長になった岡田宏明さんでした。この時から北海道でも文化人類学の教育が系統的に行われるようになったのですが、北海道民族学会が出来たのは、それから直ぐではなくしばらく経ってからでした。 日本民族学会の会員数が急激に増大した時期があって、新たに日本民族学会に地方支部をつくり、それぞれの地域で研究を盛り上げようという考えがでてきたのが始まりです。それまで、関連の学会が集まって行われていた「九学会連合大会」が解散し、毎年続けられてきた日本人類学会との連合大会が廃止され、学会活動が急に寂しくなったことも影響していました。支部活動費が支給されましたが、北海道は海を隔てた東北地方と一つに括られていたため、活動しやすい環境ではなく、お互いに遠慮がちで進まなかったと思います。 北海道民族学会を提案されたのは、2代目会長になった札幌大学の宮良高弘さんで、1981年のことでした。会長は岡田宏明さん、事務局は会長の所属するところでということで、北海道大学文学部の社会生態学講座がそれに当たりました。その後2,3年して、北海道と東北地方合同の支部活動は難しいことが理事会に理解され、評議員選挙は一つの地区だけれど、支部活動は独立して行えるようになりました。活動費の助成が別だてで行われるようになったのです。 そこで、懸案だった印刷物を出せる体制が整い、「北海道民族学会通信」の発刊に繋がりました。ちょうど文学部に配置換えになった私も手伝い、少ない費用で通信を出すために奔走しました。長く続いても飽きないように、題字を書家の椿坂恭代さんに書いていただきました。当時、北大の埋蔵文化財調査室で働いていましたので、無償でお願いし、印刷は3ヶ所の中から北大南門に近く最も安上がりで早く綺麗に仕上げてくれる「機関紙印刷」を選びました。 研究会の発表要旨を発表者に作ってもらい、それを載せるのを主にして紙面も充実していたと思います。この伝統は今回「会報」に変わるまで、20年余23号まで続きましたが、その間になぜ変わらなかったのか不思議なくらいです。 1989年だったと思いますが、会長が2代目の宮良高弘さんに交代し、そのころ新しくできた北海道東海大学比較文化の若手教員たちが事務局を務めることになりました。その後事務局は、札幌大学・札幌国際大学と続いて、3代目会長が小樽商科大学の和田完さんに代わったとき、事務局も小樽商大におかれたのです。はじめて札幌を離れたのですが集まりもよく、充実した時期であったと思います。4代目会長は谷本一之さん、事務局は開拓記念館で行い、5代目岡田淳子のときから事務局が北海道大学北方文化論講座に移って、現会長6代目の津曲敏郎さんへと続いています。 その間、年1回の総会、2回の研究会、「通信」1回の発行はめんめんと続いてきました。研究会が3回、通信が2回発行されたこともあり、研究に加えてそれ以外の仕事がますます忙しくなるなか、財政赤字も招かずに、よくぞ続いてきたものと思います。これは、ひとえに事務局を担ってきた若い研究者達の努力によるものです。 北海道民族学会は、文化人類学を芯にして、関連諸科学を緩やかに結びつけた学会ですが、現在は、日本文化人類学会とは別個に独立し、「通信」を「会報」に格上げし、事務分担を決めて負担を分散するようにしています。私が会長だった4年の間にギクシャクしながら、運営委員の力で到達した形です。この会が、今後ますます発展するように願って止みません。
(北海道民族学会顧問)
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